サマセット郡 (Somerset County)
サマセット郡はソールズベリ大都市圏に属している.
バージニア植民地が1659年から1660年に、クエーカー教徒にイングランド国教会に改宗するか、植民地を去るか決断を求める法を成立されたこともあって、サマセット郡に植民が行われ、設立された. デルマーバ半島の南端にあるアコマック郡に住んでいたクエーカー教徒集団が、1661年にボルチモア卿に請願して、その領土のチェサピーク湾東岸のさらに北に移住することになった. ボルチモア卿は、バージニア人が進出してくる可能性が強くなり、デルマーバ半島の領土境界を強化する機会だと判断した.
1632年にボルチモア卿がイングランド王チャールズ1世から得ていた王室勅許では、メリーランドの領土をポトマック川全流域の北、北緯40度線までと定めていた. 後にボルチモア卿がチェサピーク湾東海岸に行わせた測量では、その南部境界の延長がポコモーク川河口で半島を横断しており、「ワトキンスポイント」と記された露出岩で北岸に印が付けられた. 1662年11月、バージニアのクエーカー教徒はそのポイントのすぐ北、アネメセックス川の南岸に入植し、別に国教会系のバージニア人開拓者が、更に北、マノキン川沿いに第2の入植地を造ることを認められた.
この2つの開拓地に関連して、ボルチモア卿は東部海岸領土にメリーランド人2人、バージニア人1人からなる3人の委員会を設定した. その目的は表面上領土を監視することであり、新しい開拓地を造り、全ての土地と住民の移動について記録を詳細に残していくことだった. しかし実際にはこの委員会を使ってこの地域に対するメリーランドの領有権を補強し、バージニア人による進出を監視することがあった. 1663年、バージニアの活動家が植民地議会を説得し、バージニアとメリーランドの境界はポコモーク湾の北30マイル (50 km)、ワイカミコ川河口にあると宣言させ、ワイカミコ川より南にあるアネメセックスやマノキンなど開拓地の人々すべてにバージニアへの忠誠を確保させることを命令した. 1663年10月初旬、アコマック郡の民兵隊をエドマンド・スカーボロー大佐が率い、アネメセックス開拓地に到着し、逮捕や資産の押収という脅しを使って、忠誠の誓いを取ろうとした. この時点で、スカーボローはスティーブン・ホーシー を逮捕する任務が与えられていた. ホーシーはイングランドのワイト島の生まれで、1643年にバージニアのノーサンプトンに移民してきていた. ホーシーは反課税運動の指導者であり、植民地政府を批判する者でもあり、またウィリアム・クールボーン 、ランドール・レベル 、アンブローズ・ディクソン というノーサンプトンの仲間と共に、1651年の「トリセシモ・ディ・マーティ」(イギリス新政府への誓約書) に署名していた. スカーボロー大佐とその40名の騎兵からなる部隊は、1663年10月11日にホーシーの新居に到着し、ホーシーに対するバージニア植民地議会の命令書を提示した. ホーシーはスカーボローに逮捕されたが、その部隊についてバージニアに戻ることを拒否し、メリーランドに留まり、イングランド国王とボルチモア卿に対する忠誠を維持すると宣言した. スカーボロー大佐とその40名の騎兵からなる部隊は即座に開拓地を出て行った. 彼らはアネメセックス開拓地住民からの忠誠の誓いを得ることができずに戻っていった.
新しい開拓者たちはボルチモア卿の治めるメリーランド東海岸部下流に到着すると、新しく設立した郡の政府設立に取り掛かる必要があった. ホーシーは即座に指導者として認められ、新郡を運営する最初の郡政委員の地位に選ばれた. ボルチモア卿チャールズ・カルバートは、1665年12月11日、スティーブン・ホーシーと、ウィリアム・ソーン大尉、ウィリアム・スティーブンス、ジョージ・ジョンソン、ジョン・ワインダー、ジェイムズ・ジョーンズ、ヘンリー・ボストンを委員に任命した. ホーシーはサマセット郡設立の父のリストに、自分を含めることができた. ホーシーはこの指導者としての役割に加えて、「ミスター」の称号をつけることもできるようになった. ホーシーは1666年の冬から春にかけてサマセット郡政委員会の常任委員を務めた. ホーシーがチェサピーク湾を何度旅したかは明らかでないが、1665年にソーン大尉と共に渡ってチャールズ・カルバートと会見したの事実であり、カルバートはこの2人の新郡政委員に自ら就任宣誓した. ホーシーは当初から反逆児として頭角を現し、その信念のために公衆の表に進んで立つ人物だった.
郡の北側境界も論争になった. ボルチモア卿はその東海岸部領土がデラウェア湾入り口にあるヘンローピン岬まで広がっていると考えていた. そこはオランダがデラウェア領土を支配したときに入植しようとした最南端だった. しかし1673年、ヨーク公がその領土の境界(半島横断線と呼ばれる)測量を命令した. それはデルマーバ半島の最も広い部分を横断し、フェンウィック島を通るものであり、ヘンローピン岬からは約15マイル (24 km) 南を通っていた. 1682年、デラウェア総督のウィリアム・ペンはその新しいデラウェア領土がこの測量線まで広がっていると宣言した. しかし、サマセット郡南部境界の論争とは異なり、この境界線付近のどちらの側もほとんど開拓者が入っていなかった. この境界線は最終的に1763年、測量士のチャールズ・メイソンとジェレマイア・ディクソンがデラウェアとメリーランドの境界を定義した時に決着した.
サマセット郡には主にバージニアから新しい開拓者が入り続けた. 1666年までに独自の政府を持つ郡を設立する条件に合うようになっていた. 1666年8月22日、ボルチモア卿が完全な市民と軍隊の組織設立を含め、新郡設立を宣言した. この宣言により、保安官と軍隊指揮官が設定され、また郡を通る道路を決める5人の測量士も決められた. 1667年1月、郡の管理者は5つの地区を決め、「ハンドレッド」という呼称で指定した. 地域に関する知識が増えるにつれて、その後も新しいハンドレッドが追加された.
郡の開拓はチェサピーク湾から東に進み、アコマック郡から北に上がった. 初期2か所の開拓地住民はクエーカー教徒とイングランド国教会員だった. どちらの集団もバージニア植民地北部からの移住者が増えるにつれて、拡大を続けた. 1670年代、スコットランドとアイルランドの長老派教会員が、ある者はバージニアから、またある者はイギリスから入ってくるようになった. 1680年12月、郡の著名人でイングランド国教会員であるレホボス開拓地のウィリアム・スティーブンスが、北アイルランド、ラッガンの長老派教会に牧師を派遣してくれるよう要請した. 最初の長老派教会牧師フランシス・メイクミーは1683年初期に到着した. その後は急速にアイルランド系長老派教会牧師や宣教師が増えて行った. サマセット郡東部のポコモーク川沿いにあるレホボスやスノーヒルの町は、郡内の長老派教会中心となった. これら長老派教会牧師や宣教師の活動により、1706年にはフィラデルフィア市で長老派教会が組織され、アメリカ長老派教会の前身になった.
1689年、前年にイギリスでカトリック教徒の国王ジェームズ2世を追放し、オランダからオラニエ公ウィリアムとメアリーを招聘した名誉革命の結果もあって、メリーランドのピューリタンが蜂起し、カトリック系のメリーランド政府を退陣させた. この行動は1689年のプロテスタント革命と呼ばれるようになり、ボルチモア卿の領主勅許が復元され、メリーランドは王室領となった. 1692年、メリーランド植民地議会はイングランド国教会を国教に制定し、これがクエーカー教徒や長老派教会員への圧力となり、アメリカ独立戦争のときまでその数はゆっくり減り続けた.
地図 - サマセット郡 (Somerset County)
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国 - アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の国旗 |
アメリカ合衆国(United States of America)の頭文字を取って「U.S.A.」もしくは「USA」、合衆国(United States)の頭文字を取って「U.S.」もしくは「US」、または単にアメリカ(America)とも称される.
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